障害ってなんだろう
陸上競技に障害走というのがある。ハードルがいくつもあってそれを飛び越えてゴールを目指す。中学生の頃、陸上部だった私は障害走の選手だった。
いつもハードルの先にあるゴールを見ながら思っていたのは、なぜハードルの先にゴールを作ったのか、あそこにゴールを作るからハードルが障害になるのだ。ゴールを少しずらせばハードルを超える必要はないじゃないかとそんなことを思っていた。
障害とは、ゴールが決まって初めて、それを妨げるものが障害となる。
中学、高校生の頃はサッカーが大好きで本気でプロを目指した時期もあった。でも7年位前に膝の前十字靭帯を断裂して、前みたいなプレーはできなくなった。遊びでサッカーをすることがあるが、以前みたいにできない自分にイライラする。サッカーをお思いっきりやるというゴールを設定したときにこの膝が障害となる。
また、いつも法事のお参りにいく家に、眼の不自由な方がいらっしゃる。生活のなかで様々な苦労はあろうけれども非常に豊かな繊細な世界をいきてらっしゃるなと会話をするなかで伝わってくる。言葉にするのは難しいがその方と接していて、私は五体満足ゆえに、人の優しさをないがしろにしている部分があるのではないか、他人の優しさを感じ取るとか、繊細な世界を生きるということをゴールと設定するならば、五体満足ということが障害になっているのではないかと感じる。
とにもかくにも、ゴールが何かによって何が障害かは変わっていくと思う。生きる目的・ゴールってなんだろう。それがもしわからないならば、何が障害か、だれが障害者かわからないのではないだろうか。だから「障害者」という言葉を使うたびに何か違和感がある。
人間って不思議な生物だと思う。生物というものは自分のDNA・自分の子孫を残すために様々な進化を遂げてきた。いわば、子孫を残すことが生物の生きる意味であるといっても間違いではないだろう。しかし、人間は生物でありながらそうとも言えない。発展途上国の出生率は高く、先進国は少子化に悩まされているという状況もある。
人間が生きる目的って難しいね、障害ってなんだろうね、それは個性かもしれないねと、みんな横一列で決めかねている状態が人間味があっていいなと思う。
最近、「碍」という漢字を常用漢字にできないかという話し合いがなされているらしい。障害者の「害」の字に替わって使えるようにとのニーズがあるようだ。しかし、DPI日本会議(障害の有無によって分け隔てられることのない共生社会を実現するための取り組みを進める障害当事者団体)の佐藤聡事務局長さんは「障害者自身が差し障りをもたらす存在ではなく、社会にある障壁が障害者を作り出してきたとの考えに基づき、言葉を替えることにあまり意味はない」と意見を述べられていた。
そうか社会が障害者を作り出してきたのか。なるほど非常に興味深い視点だなと感じた。
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