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晩春の候

年度末というのは、あれこれ忙しいものだから、膨らみ出した桜の蕾に、まだ咲かないでくれ、この仕事が済むまで待ってくれと念をおくっていた。もうすぐやってくる春を、満開の桜を、ゆっくりとした気持ちで眺めたかったのだ。

そんな3月27日、私はコロナになった。多分オミクロンだと思う。軽症で済むと聞いていたが、結局39度の熱が5日間も続いた。ベッドに横たわり悶える私とは対照的に、視界に入る窓には、春のあたたかな空の中を、白い雲が気持ちよさそうに泳いでいた。その空も、熱のせいでプールに潜り水中から見上げているように見えて、夢か現実か定かではなかったのだが、春がこの町に来てしまったことは、感じ取っていた。

何も手につかないものだから、Netflixで30分アニメのワンピースを次から次に見ていった。小さい頃に一度みていたから、そこまで面白いとは思わなかったが、海上レストラン編で、サンジがルフィたちの仲間になる場面だけは、この先何度見ても泣くと思った。

サンジはここまで育った海上レストランを、そして料理長であり父親代りとしてサンジを育てたゼフの元を離れ、ルフィとともに旅に出ることになる。ゼフとサンジは深い絆で繋がっているが、とても仲が悪い。サンジは別れの挨拶もせずに船に乗り込もうとする。その背中にゼフが2階から「サンジ」と呼び止め、その背中に「風邪ひくなよ」とやさしく声を掛ける。サンジはその言葉にとうとう涙をながして、振り向きざまに土下座をし「長い間くそお世話になりました」という。そんな場面。

愛に満ち溢れた不器用な親父は、子どもにその愛をどう伝えたらいいのかわからないのだ。きっと。だから「風邪ひくなよ」とさり気なく言う。うちの親父もそうだった。耳に残るその声を思い返すと、そこに込められた愛情の深さに溺れてしまいそうになる。

親父はよく「金はあるか?」とも聞いてきた。実家に戻ってすぐの頃は、「ない。くれ」と飛びついていたが、このままでは自分が甘えてダメになってしまうと思い、もらわないようにした。たまに「くれ」というと、嬉しそうな顔をしてお金をくれた。親子喧嘩して何日か口を利かないときに、その硬直状態を破るのは、いつも親父の「金はあるか?」だった。その時はお金があっても「ない、くれ」というようにしていた。あの人は一層嬉しそうに財布を開いた。

今は、ゼフの気持ちもサンジの気持ちもわかる気がする。

熱が落ち着きて、さらに5日ほどしたら保健所から外出の許可がおりた。急いで桜を見に駆け出した。予想はしていたが、大部分は散っていて、緑のなかに所々、桜の花が咲いている程度だった。とても残念な気持ちになった。

桜といえば、4月の終わり頃、知り合いのBARを訪ねた時、さくらさんという女性に出会った。

私がそのBARに入ったとき、カップルが一組いた。女性の方は20代の半ばで、男性は、一回り以上の歳が離れているように見えた。私は、入り口に1番近い、男性の隣に座り、前のお客さんが注文したのであろう、目の前に置かれたボトルのウイスキーをロックでもらった。2人の話している感じから、恋人関係ではないようだった。

2杯目をもらうころ、どういう経緯だったかは覚えていないが、BARのオーナーと、隣の男性と、私の三人で話すようになった。隣の男性はおしゃれなポロシャツを着ていて、見ず知らずの私とも気さくに話す、仕事ができそうな素敵な大人だった。女性はその奥でフルーツのカクテルを飲みながら、3人の会話に心地よく相槌を打ち、つかず離れずの距離をとっていた。服装、振る舞い、話し方、相槌、すべてに品があって、黒板に書かれたフルーツカクテルを上から、イチゴ、バナナ、キウイと順番に飲んでいた。BARでこんな頼み方をするのは品がないように思われるかもしれないが、彼女が頼めば品があった。もしかしたらお酒が強くないのかもしれない。そう、この時、私はすでに彼女に「ほ」の字だった。

3杯目をもらうころ、名前を聞いた。名前をさくらと言った。今年見損ねた満開の桜がこんなところに咲いていたかと思った。もちろんそのときに男性の名前も聞いたのだが忘れてしまった(ごめんなさい)。

連絡先を知りたいが、お連れの男性を通り越して彼女に直接聞くわけにもいかず、ここはその男性から「2人で連絡先交換したら?」の鶴の一声を引き出すしか方法はないと思っていたので、さりげなくブローを打っていた。

私の気持ちに気づいたのであろう彼は、ここで思わぬカウンターパンチを繰り出した。「さくらちゃん、実は、鹿児島これで最後なんだよ。明後日、福岡に引っ越すんだよ」と。

少しだけ変な間が空いて、私は、「そうなんですか?」と本人に聞いた。彼女は笑って本当だと言って、先日仕事を辞めたことと、鹿児島には1年半住んでいたこと、キラキラした目で教えてくれた。

今年は桜にほとほと縁がない。

end

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