ナガランドの旅
2019年2月。
インド・コルカタの日本人宿で出会った旅人に、ある動画を見せてもらった。
その動画には、深い霞に覆われた静かな山間に美しい棚田が30段にも40段にも50段にも続いていて、農作業服の女性たちが散り散りになって作業をしていた。20人くらいか。顔はインド人より日本人に似ている。そのうちの一人が、田を耕しながら、言葉を素朴な異国のメロディーに乗せて遠くに飛ばした。静かな山に歌が響く。するとすぐに遥か遠くの山で同じように農作業をしている女性たちから歌の返事がやってきた。作業の手は止めない。歌のやりとりが続く。今度は別の山から新しい歌が届いた。カサ、ベチャという田を耕す鍬の音がリズムを加えて心地いい。何を言っているのか意味はわからないが、「うちはここまで仕事がすすんだよーあんたらはどうかい?」「いやこっちはまだまったく終わんないよーこりゃ休憩なしだわ今日」といっているような気がする。山全体でそんな歌のコールアンドレスポンスが続き、それは龍でも現れそうな神秘的な雰囲気を作り出していた。そういう動画だった。
その動画を見せてくれた旅人は、日本でDJをしていて、この歌を生で録音して自分の曲に使いたいと思い、コルカタに着く前に、探し回ったという。しかし、その場所がインドの北東部の秘境といわれるナガランド州であることまではわかったが、歌までは行きつかなかったと肩を落としていた。
私と一緒にその動画を見た宿のオーナーは、ナガランド州を含めた7州はセブンシスターズと言われ、旅人は滅多に行かず、ガイドブックやインターネットにも情報がないことを教えてくれた。この時、私の目はひときわ輝いていたようで、オーナーは私の目をみて「行くのか?」と聞いた。私は「わからない」と答えた。1週間後、ちゃんと私はナガランド州のコヒマという街にいた。
コルカタからナガランド州までは、恐ろしいほど遅い長距離電車を乗り継いだ。そこから先はガイドブックに載っていない旅で、さながらドラゴンクエストで村人に話しかけヒントをもらい旅を進めるみたいに、出会う住民らに声をかけ、例の動画を見せ「この場所は、あっちだこっちだ、違ったあっちだ。いやあっちだ、いやこっちだ」と不安定な情報を得ながら行先を決めてゆく、40・50年まえのバックパッカーがしていたような旅をした。確かな情報のない旅は、毎日が暗闇に飛び込んでいくような気分だったが、出会う住民が素朴で親切で、町が平和だったのが光だった。それにしても、ナガランド州に入ってからの道は悪路につき、50キロ進むのに丸1日かかることも珍しくはなく、雨が降れば通行止めとなり歩いての移動となった。その景色は日本とあまりにも似ていて、日本を歩いている錯覚に陥った。夜は集落の軒先で野宿をし、食事は露店で調達、トイレは適当に。わずか数百キロの道に5日かけて、やっとの思いでたどり着いた町がコヒマだった。着いたときには、現地の人も嫌厭するほど私の服は汚れていた。
なだらかな山の斜面に位置するコヒマは、病院や学校、教会、宿、レストランもありネットも繋がる。斜面の上部にはカラフルで立派なコンクリートの家が多く、下の方には茶色いトタンの屋根の家が押し詰められていて、ちゃんと貧富の差もあるのだと思った。ジャケットを着た人も数人見た。ここから歌の地域までいよいよ南に50キロだという。
コヒマに着いた日は、小雨が降っていた。そして目的地までの乗合バスは出なかった。しょうがなく宿を取り、久しぶりのシャワーを浴び、洗濯をし、まともな食事をした。この時はまだ昼過ぎで、お金を下ろしに外へ出た。下は貧しい地区だから、つづら折の道を上へ上へとのぼってゆき、ところどころ近道の歩道橋を使った。いくつかATMは見つかるも、機械が悪いのかカードが悪いのか、お金はおろせずじまいで、疲れてベンチに座った。目の前を車が何台か通り過ぎ、学生が何人か通り過ぎた頃、車道を挟んで向かいの山の中に、葉隠に何かが見えた。近づくと、この静かな山にはあまりにも不釣り合いの戦車があった。それは果てたイギリス軍の戦車で、砲は明後日の方を向いていて、奥には戦闘機もあった。横に立っている石碑を読むと、
「who were attacking Japanese positions 」(日本軍を攻撃していた・・)と書いてあった。
「japanese(日本の)」と書いてあったからドキリとした。石碑の英語をなでるように読んで、地図を広げた。私が今いるコヒマ(kohima)のすぐ下に「imphal」と書いてあった。まさかと思ったが英語表記で自信がなく携帯で調べるとやはりそれは「インパール」だった。
心がドキリドキリとした。足元を見ると地面に吸い込まれていく気がして、自分が今いる場所を確かめるように、骨が出ないかと少し掘ってみたが何もでなかった。
結局あの動画の歌は聞けなかった。帰りの飛行機の時間が迫っていたことと、そもそも田植えやら稲刈りの時期に歌われるもので、今はその時期ではないから聞けないということだった。
私はそんなことより、史上最悪のインパール作戦で、こんなにもこんなにも遠くの地でまで来て、飢えと病気に苦しみながら亡くなった3万の日本人は、日本とよく似たこの景色を見ながら何を思い死んでいっただろうと、それだけをずっと考えていた。
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