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仏教の救いについて

かなり前の話になりますが、

その時、20代前半だった私の友人は、なかなか彼女ができないことに困っていて、毎年初詣には自宅から2時間もかけて恋愛成就の神さまがまつられているという神社に行っていました。毎年、年末になると「今年もできなかった〜」と残念がるものですから、もう神社に行くのは諦めたらと促すのですが、「入れたお賽銭が安かったのだ。来年は2倍入れてしっかりお願いするんだ」と。そう答えるのも毎年のことでした。

それから5年くらい経った頃、居酒屋で彼に再会しました。「実は今年、彼女ができたんだよ」と報告してくれました。私は「良かったな〜、あんなに彼女が欲しいと言ってたもんな〜。彼女ができて幸せだろう?」と言いましたら、少し眉をひそめ「実はそうでもないのよ、楽しいこともあるけれど、ケンカすることもあって、今もちょっと険悪ムード」と言っていました。

それからさらに3年たった頃、また居酒屋で彼に再会しました。彼は私に「実は、去年あの彼女と結婚したのよ」と報告してくれました。私は彼に「よかったな〜。おめでとう。なんだかんだ言って上手くやってたんだな。生活はどう?幸せ?」と尋ねると、また少し眉をひそめ「実はそうでもないのよ。今マンションを買って一緒にくらしてるんだけどね、幸せといえば幸せなんだけど、俺の給料が奥さんに全部もっていかれて、お小遣い制なのよ。それに一緒に暮らすとさ、見えなかったところも出てきて、想像してた結婚生活とちょっと違うのよね」と話してくれました。

それからさらに3年後、また居酒屋で再会しました。会うのはいつも居酒屋でバッタリです。彼は私に「実は去年、子どもが生まれたのよ」と満面の笑顔で、スマートフォンの写真を見せながら教えてくれました。その笑顔から、子どもを溺愛していることが伝わってきました。私は彼に「それはよかったな。おめでとう。幸せそうだな!」というと、彼は満面の笑顔をして「うん。本当に幸せだ」と答えてくれました。そのあとにこう付け足しました「幸せすぎて怖いんだよ〜」と。

一連の彼の言葉に、人間さしさを感じました。もともと、彼女がいないことで苦悩していた彼ですが、彼女ができて幸せになったかといえばそうではありませんでした。彼女ができたことで新たな苦悩が生まれました。結婚にしてもそうです、結婚したことでまた新たな苦悩が生まれました。そして子どもが生まれて最高のお幸せを感じている時でさえ、幸せすぎて怖いと言っていました。彼の置かれている状況はコロコロかわるけれども、どのような状況でも、そこに一抹の苦悩を感じている彼の姿に人間らしさを感じました。

仏説無量寿経というお経にも、似たようなことが説かれています。

田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、またともにこれを憂ふ。

仏説無量寿経

少し進んで、

田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物なければまた憂へてこれあらんことを欲ふ

仏説無量寿経

と、田んぼや家や財産があればあったで苦しむし、なければないで苦しむ。あってもなくても苦しむよと説かれています。仏教で問題にしているのは、どんな状況であっても苦悩を抱える私を問題にしているように思います。

一般的に救いと言ってイメージするのは、お金で困っている方にお金をあげる。病気で困っている方の病気を治してあげる。など状況を変えることではないでしょうか。確かにそれはお金や病気で苦悩している方にとっては最高の救いに違いありませんが、状況を変える救いは仏教の救いとはいえないようです。

江戸時代の曹洞宗の有名な僧侶である良寛の言葉にこのようなものがあります。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 これはこれ災難をのがるる妙法にて候

良寛

この言葉は、大地震によって子どもを亡くした友人に送った見舞い状の一部と聞いています。災難に遭う時にはあえばよい。死ぬ時には死んだら良いとは、なんとも冷たい見舞い状に読めますが、ここには仏教の救いがとかれているように思います。

良寛さんのこの言葉の裏には、『縁が整えば災難にあっていかねばならないし、生まれたものは必ず死なねばなりません。それが私たちです。仏教は、その災難の中を生きていける、死ぬ時に死んでいける、そういう支え・力をくださる教えです。だからどうぞ仏教に出会ってください。』という友人へのメッセージがあるのではと感じています。

仏教は自分の力でさとりにいたる聖道門(しょうどうもん)と阿弥陀仏(あみだぶつ)のちからで浄土へ生まれ、そこでさとりに至る浄土門(じょうどもん)にわけられます。

聖道門であれば、煩悩をコントロールすることで災難の中を生きてゆく。浄土門であれば、阿弥陀仏に育まれながら災難の中を生きてく。

災難のなかを生きていける支え・力をいただく。これが、どんな状況でも一抹の苦悩を抱える私に与えられる仏教の救いではないかと思っています。

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