AI時代を前に
知人のおばあちゃんが入院して、お見舞いにいくことになった。お見舞いに何を持っていけばいいかわからず、ネットで「お見舞い 喜ばれるもの」と検索をかけてみると、入院経験ののある方が、その経験をもとに記事を書いておられた。
・賞味期限が短い食べ物は避けた方がよい。
・お花を持っていく際は、水換えが少なくて済むものがよい。匂いがきつい花は避けた方がよい。
・なんだかんだいって現金がよい。
・もらって1番困ったものは「千羽鶴」で、食べることもできないし、何かに使うこともできない。どうやって捨てたらいいかわからなかった。
などなど。
私は、フムフムとその記事をよんで、小さなブリザードフラワーをネットでポチッと買って持って行くことにした。
お見舞いの日。少し重たい扉を横にスライドさせて病室に入ると、四つベッドうちの1番奥の東側におばあちゃんは寝ていた。目に飛び込んできたのは、枕元にかけられたカラフルな千羽鶴だった。「食べることもできず、使い道もなく、捨てるのに困る」千羽鶴である。おばあちゃんは、私が持ってきたお見舞いをひとしきり喜んだ後、さらに笑い皺を深くして千羽鶴の話をしてくれた。「この千羽鶴は古い友人が、一人で折って持ってきてくれたのよ。もらった時にはびっくりしてね。とても嬉しかった」と。
私は、初めて間近にみる千羽鶴に手を通してみた。するとビビッと、これを手渡したご友人の「早く良くなってね」という心と、ご友人が一羽一羽、途方もない時間をかけて丁寧に鶴を折っている、そんなストーリーが伝わってきた。そして、横に並んだ私のドライフラワーがやけに陳腐に見えたのである。
一昔前の方々は、そんな心とストーリーが現れてくるようなものに囲まれていたのかもしれない。手書きされた地域の行事案内、好きなアーティストのイベント告知のハガキ、雑誌に掲載されていたレシピの切り抜き、職人さんが手作りしたタンスや漆器、代々伝わる着物、何度も手直しされた洋服。色落ちした写真などなど。
現代を生きるものたちは、アナログからデジタル、手作業から大量生産に変わり、心とストーリーが感じ取りにくいものに囲まれているのではないだろうか。昔の人はものが捨てられず、今の若い人は簡単に物を捨てると聞くが、その一因もここにあるような気がする。
さらに時代は進み、これから本格的なAI時代の到来となる。
本屋で手に取る小説や雑誌、ふと目にはいる絵画、ドラマの脚本、街を歩いて聞こえてきた音楽、広告のキャッチコピーやイラスト、プログラムコード、ゲーム、悩み相談、料理をもってくるロボット、掃除をするロボット、電話対応、メールの返信、ニュースを読む人・・・あたかも田舎の空き家に草が生え、木が生え自然に覆い尽くされていくように、私たちの生活がいつの間にやらAIに覆い尽くされていく。
チャットGPT(会話型AI)に「1番悲しかったのはいつですか?」と聞いてみたら「AIには人間が感じるような幸せや悲しみ、怒りなどの感情を持っていません。私の応答は、感情や経験ではなく、トレーニング中のデータや指示に基づいています。」と答えが返ってきた。
これからの時代は間違いなく便利になり、可能性は無限大に広がっていくだろう。しかし、心とストーリーを感じとりにくい空っぽの世界になりはしないか。そんなことを少し心配している。
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