1. HOME
  2. ブログ
  3. エッセイ
  4. 2025年6月 新疆ウイグル自治区カシュガルの旅

2025年6月 新疆ウイグル自治区カシュガルの旅

6月1日 暗闇に向かう旅

5月31日(土)。
中国南方航空648便は羽田空港を15時45分に出発して、北京そしてウルムチを経由し、6月1日の朝8時、キルギスのビシュケクに到着した。とりあえず空港のATMで現地通過を日本円で3万円ほど下ろし、スマホのSIMカードを購入してから空港の外へ出た。すると、たどり着いたばかりような夏風がサラッと吹いて、日本よりも少しだけ早く夏の気配を感じた。

入り口前で、タクシーの客引きが3人ほどやってきたが、無理をして客を取る気はないという感じで、首を横に降ると引き下がってくれた。

都市部へ向かうバスに乗った。バスの中は閑散としていたが、運転手は旅行客が珍しいのであろうか、陽気に声をかけてくれた。
「日本人?」「キルギスは初めて?」「今着いたところか?」
と辿々しい英語を楽しそうに披露すると、最後にこのフレーズだけは自信があるんだというふうに、「ようこそキルギスへ!」と声を張り上げて言った。その言葉は十分に私の緊張を和らげ、キルギス人は必要以上に疑う必要はないことを教えてくれた。私は運転手のすぐ後ろの席に座り「中心部に着いたら降ろしてほしい」と伝え、しばらく寝ることにした。ウトウトしながら目に入るキルギスの最初の景色は、のっぺりと面白みにかけており、遠くにポツポツ動かない雲が浮かんでいるほどであった。

しばらくして、運転手の呼ぶ声で目が覚めた。どうやら彼はちゃんと私を街の中心部で起こしてくれたようである。その頃にはバスの乗客も満席近くなっており、他のお客さんを待たせたら悪いと、慌てて降りた。私を下ろしたバスは、無機質な音を立ててドアを閉め、勢いよく走り去っていった。中心部と言われたところは、人や車の交通量こそそれなりにあるものの、高いビルや立派な建物は見当たらず、ポツポツと商店や食堂があるくらい。遙か遠くに溶けきらぬ雪に覆われた山々がうっすら見えていて、季節は初夏であるけれども、どこか秋のような閑散とした雰囲気があった。拍子抜けを含む心細さを僅かに感じた。とりあえず、木陰に荷物を置いて、これからのことを考えることにした。

今回の旅は、ここキルギスのビシュケクから新疆ウイグル自治区カシュガル(中国)を目指す。

新疆ウイグル自治区カシュガルは、中国の広大な内陸部に位置し、「ここに一体何があるんだろうか?」と冒険心を掻き立てられる地域である。この地域では中国による深刻な人権侵害が行われているといわれ、国際的な問題になっている。(アメリカのプロパガンダともいわれたりもするが・・)。

日本からカシュガルへ行くルートとしては、北京などから中国に入り、飛行機の国内線や長距離列車を使うルートが一般的である。私も当初、このルートで行こうと思ったのだが、このルートを通ってウイグルを旅した人らのブログを読むと「ウイグルは平和で見どころいっぱい。とっても素敵な観光地♪ルンルン」という平和的な感想がやけに多く、問題多きウイグルなのにどうしてこんな感想を抱くのだろうと不思議に思っていた。ウイグル問題を取り上げた本や記事には『ウイグルの問題は、中国政府がうまく包み隠しており、表面には見えずらい』と書いてあり、中国内部を通るルートは中国政府が包み隠したベールの中を旅することになり、問題が見えずらいのかもしれないとの仮説を立てた。そして別のルートで入国する方法はないものかと探し始めた時に、キルギスからのルート見つけたのであった。しかもこのルートは、国を跨いで物を運ぶトラック運転手と出稼ぎに行くウイグル人労働者が使うものらしく、これならウイグル人たちと密に旅ができるかもしれないと尚更興味が湧いた。

ただ、キルギスからウイグルへ行く情報はネットやガイドブックには載ってなかった。最も危惧したのは国境であった。キルギスのビシュケクと新疆ウイグル自治区のカシュガルを結ぶ国境は、トルガルト峠と言われる標高3500メートルの山の中に位置する。この時期の最低気温はマイナス20度にもなるだろうし、そこで何かトラブルになることだけは避けたかった。そこで、在中国日本大使館、在日本中国大使館、中国ビザを発行する機関、中国とキルギスと旅行会社などにメールを送って返事を待つことにした。返事はいくつか返ってきた。中でも一番丁寧に長文で返事をしてくれたのは在中国日本大使館だった。そのメールには、「トルガルト峠は現在通過は可能である」と書かれており、加えてウイグル自治区の危険度を表した外務省のURL、ビザに関すること、国境の開所時間、国境へ持ち込みが禁止されているものなどを親切に書いてくださっていた。旅行会社からは2社返信があった。いずれも「自力での国境越えは無理だ。俺たちに任せれば、なんとしてでも国境を越えさせてやる。金額は8万だ。安いだろう。俺たちは無敵の旅行会社だぜ!」という趣旨のメールだった。「片道8万なんて無理払えない」とすぐさま返信し、選択肢から除いた。もう行ってみるしかないと結論づけて、先のプランなど何も持たず、ビシュケクにやってきたのだった。

6月1日 旅がまだ始まらない

空港バスを降り、木陰に腰を下ろし、行き交う人々をぼんやりと眺めていた。家を出てからここまで30時間もかけてやってきたが、それでもまだ旅が始まったという高揚感はなかった。ビシュケクが賑やかではないことに加えて、どこかここの景色が日本の延長線のように感じられるからかもしれない。街を走る車、建物、道路も、どれも異国のざらつきを欠いている。

キルギス人の顔立ちも日本人に驚くほど近いものがあり、友人に似ているキルギス人がすぐに見つかる。そして、彼らの足取りには確かな目的が見えるのも日本と似ていた。彼らはそれなりに忙しそうなのだ。すべてが見慣れた光景だった。それは安心感を与えてくれるのだけれども、非常につまらなくも感じた。

時計を見ると、午後1時を過ぎていた。気分を変えようと、ふと目に入った大衆食堂へ入った。地元の人らでほとんど席が埋まっており、古いクーラーがカタカタと音を立てて生ぬるい風を送っていた。ヒジャブ姿の店員に案内された奥の席に座り、「キルギスに着いたばかりだ」と伝えると、彼女はにっこり笑い、2つの料理を運んできた。

一皿目は、焼きうどんのような麺料理。
二皿目は、どう見ても小籠包。
ラグマンとマンティというらしい。この地域の伝統料理だという。どちらもとても美味しい。

ラグマンはシンプルで正直な味付け。普段料理をしない男子学生が肉や野菜を炒め、適当に醤油やソースをドボドボいれて、たまたま完成した奇跡の一皿のような味付け。もう一つの小籠包は一つの皿に5つ乗っており、スプーンで抱え、かぶりつくと中から容赦ない熱さの肉汁が滴り落ち、口の外まで火傷をした。少し皮を破って中の具材にフーフーと息を吹きかけてから食べた。そういえば、こういった小籠包のような料理は、コーカサス地方のジョージアでも伝統的な料理として食べられていた。それはヒンカリと呼ばれ、中身は肉肉しく、皮は分厚く食べ応えがあった。慣れ親しんだ小籠包がジョージアワインのお供に出され、当然のように食べられ出るのを見て不思議な気持ちになったものだった。中国・キルギス・ジョージアに同じような料理がある。中国・キルギス・ジョージアかと頭に浮かべて「あ、シルクロードか」と確信はないが合点がいった。

食堂を出て、カシュガルへの行き方を尋ね歩いた。私が話しかけると彼らは皆、少し身構え、少し距離を取りつつも、親身になって考えてくれた。時には周り人に相談したりもして、なんとか答えを持ってきてくれた。しかしその答えは、
「バスはある」
「バスはない」
「西にバスターミナルから出ている」
「西のバスターミナルは閉鎖されてる」
「東のバスターミナルから出ている」
「北バスターミナルから出ている」
つぎつぎと矛盾する答えで、まるで街全体に遊ばれているようだった。

これでは埒が開かず、日本人宿があれば正しい情報を得ることができるに違いないと調べてみることにした。すると、検索に一件だけヒットした。「桜ゲストハウス」ここの日本人のオーナーに最後の望みを託すことにした。

6月1日 朝顔の影の下で

午後4時、さくらゲストハウスの門をくぐった瞬間、涼しい風を感じた。植物に囲まれた中庭には、東屋のような休憩所が三つ並んでおり、旅人は吸い寄せられるようにそこへ上がり寛いでいた。どこか静かな避暑地のような空気が漂っていた。

ちょうど私が到着した時、宿の主人が椅子の上に立ち、東屋の屋根から長い蔓のようなものを這わせていた。紫や赤の花がちらりと見えたので「朝顔ですか?」と日本語で尋ねると彼は穏やかな笑みを浮かべた。
「日本から苗を一つ持ってきただけなんですが、こんなに増えちゃってね」
吊り下がった朝顔の蔓や葉が気持ちの良い日陰を作っていた。主人自身、その植物たちに溶け込んでしまいそうな、優しい雰囲気の物静かな方だった。

その時、横から妙に張りのある日本語が飛び込んできた。
「今キルギスのゲストハウスに着きました!これからここに◯泊して・・・」金髪の日本人女性がスマホを自分に向けて動画の配信をしている。

近頃、こうして旅の最中ずっとカメラを構え、撮った動画をSNSに上げて旅費を稼いでいる人によく出会う。街を歩く時も、食事の最中、絶景を前にしてもレンズを離さない。
「旅に出る時くらいは、世間との繋がりを断ち切り、自由になりたくないのだろうか?」「旅の情景は、カメラではなく、心にしまい込み自分だけの宝物にしたくはないのだろうか?」と些か疑問を抱かなくもないが、ただその子はとてつもなく可愛かった。

チェックインカウンターには、主人の奥さんが1人おり、ドミトリーのベットを1泊分あてがってくれた。私がカシュガルへの行き方について尋ねると作業の手を止め、「あの女の子たち、今朝カシュガルからここに着いたばかりよ。聞いてみたら?」と東屋の方を指差した。指差す先には、重たい空気を抱え込んだ2人のヨーロピアンが座っていた。顔に正気はなく、明らかに疲れ果てている様子だった。彼女らは、これからカシュガルへ行こうとする私に何度も「やめた方がいいわ」を繰り返しながら、そのバスの旅がいかに過酷なものであったかを渋い顔で語ってくれた。そして最後にカシュガル行のバスは北バスターミナルから出ていることを教えてくれた。さっき吊るされたばかりの朝顔の花の影が、ちょうど彼女の目や口元でチカチカしていた。

北バスターミナルは宿からタクシーで15分ほどのところにあった。鉄製の青色の門から小さい乗合バスが呼吸をするように出たり入ったりしていた。建物に入ると、そこは病室の冷たい待合室みたいで、匂いまでそれに似ている気がした。私以外には白と青の制服を着た案内役の女性が1人いるだけで、花崗岩のような石でできたフロアには、彼女のヒールのカンカンという音が遠くまで響いていた。

案内役の彼女に促され、窓口の前に立つと、奥から左右に肩を揺らして大柄な女性が現れた。彼女は自分の体重をまったく考慮せずに乱暴に椅子に座ると、大きくため息をついた。明らかに虫のいどころが悪いようだった。鼻の横にホクロがあった。

早速、カシュガルへのバスはあるかと尋ねたが、どうやら聞き取れなかったようである。それは彼女と私の間を隔てる防犯用の厚いガラスのせいであった。私は、お金のやり取りをするためだけにわずかばかり開けられている隙間に話すときは口先を入れ、聞くときには耳を入れた。それでも、彼女は私の言葉を聞き取ってはくれなかったし、私もまた彼女の言葉を聞き取ることができなかった。その状況に彼女はますます不機嫌になり、大声で罵声を吐きながら、とうとう私のいる方に出てきてしまった。今度は図太い声がフロア中に響き渡り耳の底までよく聞こえた。

私は再度、カシュガルへのバスはあるかと聞くと、彼女は窓の外を指差した。そこには、塗装が剥がれた古い大きなバスと、そのバスに乗るのであろう人々が集まっていた。彼らは他のキルギス人とは明らかに違い、顔の骨格が幾分ゴツゴツして、素朴で、少し赤らんだほっぺたをしていた。身なりも周囲のキルギス人と比べて見窄らしく、みな大きな荷物を持っていた。その荷物は、スーツケースという類のものではなく、段ボールに入ったテレビやエアコン、扇風機といったものから、大きなバケツや布団といったもので、夜逃げか、引越しでもするような人も見られた。間違いなくカシュガルへのバスだった。

しかし、彼女の口から出た次の言葉は、私を重たい沈殿物のようにさせた。彼女は口元に意地悪な笑顔を浮かべて「このバスは予約でいっぱいよ。次のバスは4日後」と言い放った。

6月4日 いい加減、旅をはじめよう。

目が覚めるとカーテンの隙間から照度の高い日差しが差し込んでいた。時計はすでに9時半を回っていた。7つのベットが並んだ大広間のドミトリー。床には宿泊者分のバックパックが転がり、机には飲み残しのビール瓶が置かれている。カーテンレールに吊るされた下着やタオルはもうカラカラに乾いている。寝ぼけ眼で見渡すと、他の旅人たちはまだ寝ているようで、時折、いびきやおなら、寝言が聞こえ、旅人たちは寝ているときも思い思いに過ごしていた。

不機嫌な窓口係に「次のバスは4日後」と言われて今日がその4日目となる。
この4日間は、昼間は観光し、カフェに行き、日が暮れると酒を飲んだ。4日もいれば、店員にも顔を覚えてもらえたし、街を歩けば顔見知りに会った。バスの路線図も頭に入り、この街を自分の街のように風を切って闊歩していた。

久しぶりに目的を持って目を覚ました。ようやく旅が始まるそんな気がした。荷物を背負い外に出ると、それはそれは、いい天気だった。

鳥がさえずる中庭で、生まれたばかりの光りに包まれて西洋人カップルがナイフとフォークを使ってのんびりと朝食を摂っている。彼らのゴールドの髪の毛も初夏の花々も朝日によって一層輝き、あまりのまぶしさになかなか目が慣れない。「グッドモーニング」と聞こえてきた声の方向に、おぼろげに返事をする。後ろからも「おはよう。もう出発?」という声が聞こえ、振り返ると、高橋さんが今起きてきたところだった。

高橋さんは50歳位で、もとは学校の先生をしていたが、今は辞めてバンド活動に専念している。専念しているといっても、今長期の旅にきているからバンド自体は休んでいるのかもしれないが、旅で撮影した動画をバンドのYouTubeチャネルにアップして、登録者が1000人になるまで帰れないというノルマを課せられているそうだ。私が登録した時点で365人だった。動画を見せてもらったがコミカルな歌詞と曲調で背伸びをしていない感じが良かったし、自分たちが楽しんでいるバンドだった。インド編とカザフ編のユーチューブ動画の編集が一段落したらこの街を離れると言っていた。

昨晩は彼と一緒に地元のBARに行った。ちょっと入りにくい地下にあるBARだった。先客に22歳のスバム君という男の子がいた。彼は丁度その日に彼女に振られたばかりで、それを忘れようとグデングデンに酔っ払っていて、私たちが日本人だと知ると「日本人?ちょっと聞いてくださいよぉ」という感じで隣りにすり寄ってきた。真っ白く綺麗な肌に、男前の目鼻立ちをしており、悲しいとか嬉しいという思いをそのまま顔に出しても、まったく嫌みのない不思議な青年だった。彼と3人。足の低いソファーにそれぞれ座り、店のBGMに高橋さんの曲を流してもらいながらお酒を飲んだ。私がトイレから帰ってくると音楽がボンジョビに変わっていた。高橋さんは「スバムくんが僕の曲に我慢できなかったみたいなんだよぉ」と笑っていた。そんな昨晩だった。

高橋さんにも「日本に帰ってもユーチューブ見ます。また会いましょう」と丁寧にお別れを言った。そうして宿の出口に向かうと、ゲストハウスのお母さんが「もう行くんですか?カシュガルですか?」とたずねてくれた。「はい」と答えると、わざわざカウンターから外へ出てきてくれては、「また来てね。いつでも。何年後でもいいからまた来てね」と言って手を振ってくれた。

宿の前でタクシーを捕まえ、20分ほどで北バスターミナルに到着した。料金258ソム(500円ほど)。見慣れた場所である。バスターミナルには今日も、客らしき人はいなかった。奥のカウンターには前回と同じ体格のいい女の人が、今日も不機嫌そうに座っていた。私は「4日待ってやったぞ」と言わんばかりに目を見開いて彼女をみた。笑顔の一つくらい見せてくれるかと思ったのだ。しかし彼女は私を見るなり眉間に皺を寄せ、汚いものを見るかの表情で人差し指を立てて左右に2回振った。嫌な予感がした。

「ノーバス。ボーダープロブレム。ボーダークローズ」

まだ、窓口まで行きつかないうちに、大きな声で、「バスはないよ。国境の問題。国境が閉まっている」と言った。その声はグラニットのツルツルした壁や床に反響して私の耳に綺麗に届いた。結局、カシュガル行きのバスはでなかった。不機嫌そうな窓口係は「国境が開くのは明日かもしれないし、一週間後かもしれない。開いたとしてもバスが出るかわからない」といった。天を仰ぐ私をみて、また彼女が鼻で笑ったのが見えた。

6月4日 ナルインへ

チケット売り場を後にして古びたベンチに座り、4日も待ったのにバスに乗れないことを嘆きながらも、次第に、この困難な状況は旅をする上で“おいしい状況”であるなという思いが湧いてきた。すると一区画離れた乗り合いバスの停留所から「ナルイン〜、ナルイン〜」と呼び込みの声が聞こえてきた。ナルインはここから南に300キロのところにある街で、カシュガルへの国境から北に200キロに位置する。ナルインがどのような街かわからないが、今の難しい状況が、行けるところまでいければ十分ではないかと思えるほど心を軽くしてくれたようで、花びらが風にのってヒュルリとどこかへ連れて行かれるように、たいして深く考えもせず、足元に転がるバックパックを背負い、そのバスに飛び乗った。

乗合バスは15人乗りの古くも新しくもないハイエースだった。暗く静かな車内にはよく見ると一番後ろの列に1人、その前の席に1人座っていた。現地の人の交通手段といった感じである。満席にならないと出発しないとのことで、運転手は引き続き外で呼び込みをしているが先は長そうだった。時折売り子が、お菓子をもってやってくる。売り子は少女もいれば老婆もいる。

80歳くらいの老婆が、乗り込んできた。ピンクの花柄の帽子と白のワンピースを着ていた。手に持った箱の中には日焼けしたパッケージのポテトチップスやチョコレートやビニール袋にはったナッツなどの売り物が入っていて、決して軽くはない量だった。その時、バスには4人しか乗っていなかったが、老婆は一人一人の客の前に箱の中身をみせるように突き出して、買うものはないかと聞く。4人の客は見もせず首を振る。私はナッツを一つ買った。老婆は私が渡した数十円の紙幣を持って、大きくため息をついて、次のバスに向かっていった。この国もあんな歳になるまで働かないといけないのだ。

出発を待って40分ほど経ったころ、バックパックを背負った女の人が2人乗り込んできた。一人はすらっと背が高く先のとがったスニーカーにチノパン、シャツを着て首にはスカーフを品よく巻いていた。もう一人は淡いみ空色のストライプが入ったシャツが印象的で、サングラスを取ったりつけたりしていた。サングラスをとると眉毛もまつげもきれいなブロンドだった。

背の高い女性の方が私を見るなり、「あなたのことは知っているわ。ゲストハウスのママがカシュガルに向かう日本人の男の子がいるって教えてくれたわ。探していたのよ」と言った。

聞けば、彼女らもカシュガルへ行くことを計画しており、やはり当初は西バスターミナルから行けると思っていたらしい。ところがターミナルは閉鎖されており、困り果てた挙句、私と同じsakuraゲストハウスに宿泊。そこでママさんから「“4日後に北バスターミナルからバスが出る”と日本人の男の子から聞いたわよ」と教えてもらったそうだ。そして今日、北バスターミナルに来てみたはいいが、バスはキャンセルされていて、もうこれ以上この街では待っていられないと、彼女らもナルインに向かうことを決めたのだという。まったく同じ境遇で、しかも美人ときた。急に旅が楽しくなってきた。旅は道連れ、世は情けである。

11時になり、ようやくバスは出発した。私らは横並びになって、持っていた果物やお菓子をあげたりもらったりしながら、簡単な自己紹介に始まり、なんでカシュガルに行くのか、ビシュケクで何をしたか、そしてフランスのLGBTのことや政治のことまでも話した。彼女らはとても知的だった。

聞いたこと
・彼女らは姉妹で、背が高いほうが姉で、名前がセレスト。パリに住んで仕事をしながら大学にも通って法律の勉強をしているという。
・ブロンド髪のほうが妹で、名前がキャリクスト(発音が難しく違うかもしれない)。英語が苦手でシャイな様子。私が質問すると、その答えをお姉ちゃんにフランス語で伝え、お姉ちゃんに「あなた自分でいいなさいよ。練習よ」と促され、恥ずかしそうに英語で答えてくれる。
・セレストは中国語も勉強している。これからウイグルを観光して、そのまま友達に会いに北京まで中国を横断する。
・フランス語にも男単語と女単語があって、LGBTの問題でどの単語を使うのかはとても難しい。
・セレストは男単語と女単語をミックスして使う。(このミックスがどんな感じがいまいちわからなかった)
・フランス大統領と奥さんは20歳くらい差がある。奥さんは学校の先生だった。
・大統領が飛行機から降りるときに、その奥さんにひっぱたかれている動画が面白い。
・フランスのアタル首相は35歳くらいで、彼と誰かが選挙で対決する際、スピーチを切り取って2人が愛し合っているというテイストに造ったフェイク動画はもっと面白い。
など。

フランス語のLGBTのことや政治のことなどは、私の英語力では到底理解できず何度も聞き返した。それでもセレストは嫌な顔一つせず、ゆっくり言い換えて教えてくれた。そして、サンキューと言うと身を小さくして日本人のように手を顔の前で素早く振って謙遜するのだった。

17時。ナルイン到着。寂しいと素朴の間のような山間の町。遠くの山々にはまだたっぷり雪が残っている。タクシー運転手が、呼び込みの声を掛けたそうにモジモジしているが声をかけきらないところもこの町らしいところだった。

6月4日 セレストまかせのミーアキャット

ナルインに着いてすぐ、CBTと呼ばれる観光案内所に向かった。

寒さ対策の二重扉を開けると、八畳ほどの部屋が2つ。奥の部屋にパソコンと電話だけが置かれたデスクがあり、壁には数枚トレッキングツアーとサイクリングコースのポスターが貼られ、かろうじで観光案内所の体をなしているが、閑散としている感じから仕事はあまりないようだった。ロシア語を話す女性と英語が話せる女性の2人が対応してくれた。

CBTでの交渉は、私が前に出ていいところを見せようと思ったのだが、セレストが前に出てやってくれた。彼女はロシア語も話せたのだ。ロシア語を話すスタッフとはロシア語で、英語を話すスタッフとは英語で会話をし、途中電話で中国側の旅行会社とやりとりする場面になると、3ヶ国語を操った。私は一歩下がって、ミーアキャットのように首を右に左にフリフリするだけだった。妹はもっと後ろで、「私たちの出る幕はないのよ。お姉ちゃんが全部やっちゃうわ」とでもいうように、呑気にお土産屋を物色し、布でつくった馬の置物を買っていた。

わかったこと
・ナルインからカシュガルに向かうバスはない。
・国境付近に近づくにはボーダーパーミットという許可証が必要
・タクシーをチャーターして向かうとしてもキルギス側の国境まで。運転手がビザ?許可証?を持ってないことが理由。そのため中国側に迎えの手配をする必要がある。
・ヒッチハイクで行くことは不可能ではないが、国境は標高3700m。ホテルもなにもない。身動きがとれなくなった場合、助けはない。

CBTで2時間くらい話を聞き、ヒッチハイクで行くことに決め、ボーダーパーミットを申請した。明日の夕方には書類はできるという。

案内所の人が紹介してくれた家に泊めてもらう。一泊1000ソム(1500円)

晩御飯を食べたあと、食卓で本を読んでいると、お風呂上がりのセレストがやってきて、おちゃめに私の向かいに座り、論文を書くと言ってパソコンを開いた。彼女が濡れた長いブロンドの髪をタオルで優しくポンポンと叩くと、甘い香りがした。読書どころではなかった。

6月6日 カシュガルへ トルガルト国境

昨日(5日)は3人でナルインを散策した。舗装されていない道路をあてもなく歩いていると、素朴な服装の子どもたちがどこからともなく現れては、覚えたての英語をつかって質問を投げてくる。セレストはまさこ様みたいに、遠くの子には指をそろえて手を振り、近くまで寄ってくる子は、膝をつき合わせて丁寧に受け答えしていた。私は横でまさこ様の付き人みたいに振る舞った。夕方にはボーダーパーミットを手に入れた。

本日(6日)朝10時。快晴。それぞれの荷物を背負って宿を出た。Tシャツ、長ズボン、つばの短いモンベルのキャップをかぶる。頬に当たる風は遠くの雪山の冷気をほのかにやどして心地よいが、日差しは強く少し歩けば汗が滲む。これから向かう先が氷点下マイナス10度以下になるとは信じられず、リュックにいれた分厚いダウンジャケットの重みが、ただ無意味なものに感じられる。

国境まではCBTが手配した運転手が乗せてくれることになっている。それでまずCBTに立ち寄った。相変わらず閑散としたオフィスに、この前の女性スタッフと運転手と思われる男の人が雑談しており、私らに気づくと、スタッフは腕組みしたまま片方の掌で男の人を指して、「彼がキルギス国境まで乗せてくれるわ。そこから先は自分でなんとかしてね。幸運を祈るわ」と言った。用意された車はトヨタのランドクルーザー。私が助手席に、セレストとキャリクストは後部座席に座った。運転手は寡黙だった。ブオンと音を立てて4wdのマニュアル車は力強く走り出した。

いくつか町を抜けると車窓には荒涼とした大地が広がった。遥か遠くのほうにうっすら山々が見えるが、その山々までは裸の大地があるだけであった。その他は何にもない。道路は徐々に標高が高くなるにつれて、対向車は減り、残雪が増えてゆく。このあたりはトルガルト峠と呼ばれている。2時間ほど走った頃だった。丁度チャトルクル湖が左側に見えてくるところから息をのむような景色が広がった。それは雲ひとつない青空の下、肉眼で確認できる限りどこまでも続く手付かずの雪景色であった。それは聖者の心のなかにいるみたいで心身が浄化されていくのがわかった。私たちは思わず車外に出て、車のエンジンを止めてもらった。風もなく、動物もおらず、耳の奥がピーンと音がしていた。これを漫画などでは「シーン」と表現するのかもしれない。この時初めて、無音とは無音という音なのだと知った。それから10分ほど3人は思い思いに景色を吸い込み、再び車は走り出した。しばらくしてキルギスの国境に到着した。時計は昼の12時を回っていた。 

キルギス側の検問所は人気のない自動車工場のようで、その建物の周りを中国語が書かれた大型トラックが無秩序に取り囲んでいた。ゲームオーバー直前のテトリスみたい。建物の中に入ると運転手らが長い列を組んで、通行の許可が下りるの待っていた。私たちは誰も並んでいない別レーンに通され、あっけなく出国手続きは済んだ。外へ出ると、ちょうど手続きが終わって出発しようとしていたトラックがいたので、「中国側の検問所まで乗せてくれないか」と声をかけたら、これまたあっけなくOKが出た。

私らはトラックの荷台に乗り込み、肩を寄せ合いながら、ホッと安堵していた。このヒッチハイクで一番心配したことは、この国境付近に車が無いことであった。車が通らなければ、この極寒の山奥でテントを張って、車がくるのを待つことになりかねなかった。しかし、あれだけの台数のトラックが検問所に止まっていたのだ。もはやテントを張るまで追い詰められることはないだろう。それに幸運なことに、このトラックが中国側の検問所まで運んでくれるという。中国入国の検問所は、簡単に通してくれないことで名が知られてはいるが、そこを超えさえすれば中国であり、中国へ入りさえすれば、あとはセレストの中国語をたよりになんとかなるだろう。

そう安堵したのも束の間。トラックは止まってしまった。明らかに中国側の検問所に着くには早すぎる。運転手がひょっこりと荷台に顔を出して、「私が連れて来れるのはここまでだ。降りてくれ」と言った。

外へ出てみると、真っ白な雪山のなかに、見上げるほど大きなアーチ門が聳え立っていた。そこには大きな字で「中華人民共和国」と書いてあり、ここが中国とキルギスの国境であると一目でわかった。そしてそのアーチの下には、軍服をきた軍人が15人並んで通せんぼうしていた。私たちを乗せてきたトラックは、道を開けてもらい、白煙をあげて走り去っていった。

6月6日 カシュガル入国

雪山に突如現れた中国国境ゲートはガンダムでも通るのかというほど大きく、そのゲートの下を防寒具で体型が二倍くらいに膨れあがった中国軍人10人から15人が塞いでいた。ゲート脇には大型バスが止まっており、乗客たちが上着を着ぬままおろされ、一列になって何やら軍人たちの指示を聞いている。乗客の顔は中華系ではく、服装も質素な物であったからウイグル人ではないかと思われる。

なぜトラックの運転手は私たちを当然のようにここで降ろしたのだろうか。状況がつかめない私たちは軍人たちに尋ねに行った。彼らは私たちを見るなり、ちょうどいい遊び相手が来たみたいに、あっちこっちから寄ってきてはパスポートの提示を求め、「中国に何をしにきましたか。仕事は何ですか。(パスポートを見て)この国にはなぜ行きましたか。収入はいくらか」と質問をしてご満悦になると消えていく。また次が来る。同じような質問をして、ご満悦になったら下がっていく。また次が来て・・とこれが永遠と繰り返され時間だけが過ぎていく。ゲートは通してもらえない。彼らが一番盛り上がったのは、セレストが中国語を使った時だった。今年一番の遊び相手が来たとばかりに軍人たちが団子になって集まり、どこからか長官のような人までやってきた。私らのところに戻ってきたセレストは、中国語が話せて楽しかった風であったが、肝心のことは何もわからなかったようで、とにかく待つようにだけ言われたということだった。

ふと、どこからか視線を感じ、目を向けると、白く長いドレッドヘアー髪を頭の上で巻き、長い髭をたずさえ、汚れきった服、破れた靴。紐で寝袋やマットが巻き付けられたバックパックを背負い、目的地が書かれた段ボールを足下に置いた男性がハシビロコウのように、ゲートの脇に立っていた。修行僧のようだなとも思った。私と目が合うと、初めて、際だって白い歯を見せ可愛く笑った。そして「通れないだろう。私はもう3時間も待っている」とケセラセラと言った。彼はマルタから来て、1年旅をしている。名前はナントカといった忘れてしまった。久しぶりに絵に描いたようなバックパッカーに出会った気がした。私らも彼の横でハシビロコウのように横並びで待つことにする。

少しして、ゲート脇でチェックを受けていたバスが走り出し、ゲートを超えて行ってしまった。あのバスはたぶん、キルギスのビシュケクから来たもので、もしあの街で待っていれば乗るはずだったバスではないだろうか。あちらの方が早かったのかとは思ったが、ことさら羨ましいとは思わなかった。

さらに1時間ほどして、やってきたトラックから放り出されるさように一人の長身バックパッカーが降りてきた。スペイン人のロジャーだった。身長が190㎝くらいあり、髭を蓄えており、ピクニックでもいくかのような軽い装備である。スルスルと私たちのところへやってきて、一人一人ハグしてまわり、ここに到着するまでの経緯を身振り手振りを交え情熱的に伝えてくれた。こちらもまた絵に描いたようなバックパッカーだった。マルタの修行僧パッカーが「静」ならば、ロジャーは典型的な「動」だった。二人とも地の果て天の果てまでもいけそうな雰囲気を持っていた。結局5人で横一列で待つことになった。妹のキャリクストは遠くの方でつまらなそうに石を蹴っている。運送トラックは幾度となくゲートを潜っていくが、私たちの順番はこない。何度も聞きに行くが、「待て」の一点張り。半歩でも足が中国側に入ろうとすると、血相を変えて注意してくる。山の天候は素早く移り変わり晴れたり曇ったり雪が降ったりまた晴れたり、待ちくたびれた時に、中国側から2台のSUVがやってきた。それはトヨタランドクルーザーとスバルのSUVで、これはきな臭い匂いがした。

中国軍人たちはゲートを開け、これに乗れという。提示された金額は結構な額であった(金額を書いたメモを紛失・・・)。わずか10キロほどの距離である。歩いてでもいける距離にこの額は払えない。皆に共通するのは金はないということだった。ロジャーは身振り手振り、マルタの仙人は白い歯を見せ、セレストは中国語で交渉を始めた。私とキャリクストは後ろで石ころでも蹴っていた。軍人の言い分としてはこの車を使わないとこのゲートは通らせないとのことであったが、3人の交渉によって値段がだいぶ下がり、それを5人で割れば、なんとか払えなくはない金額にまでなった。料金を払い、その車で中国側の検問に到着した。キルギス側がアスファルト塗装された道であったのに対し、中国側の道は舗装はされておらず、ひどいものだった。

中国側の国境検問所は、キルギスのそれと同じように、工場のような場所だった。しかしキルギス側が活気のある工場であったのに対し、中国側は使われていない工場の用であった。検査を受けようとするのは私たち5人だけで、その空間には、手荷物をスキャンする機械、人間の所持品をスキャンするゲート、ゲートの向こうに、荷物を開けっぴろげにするときに使う台と申告書を書く台があり、最後にスタンプを押してもらう入国審査のカウンターが2つあるだけだった。音楽もなく、壁にもお酒や化粧品広告などのポスターは一切ない。dutyfreeのお店などあるはずもない。足下は砂だらけ。これから刑務所にでも入るのかという感じだった。

そこ軍人の格好をした役人が6人。胸にカメラとトランシーバー。腰に棒、拳銃といった重装備。ゲートの手前に1人とゲートの先に3人いる。その奥に2人。ピリッとした雰囲気のなかに時折「ウェルカム!」という、何かの機械から発せられる音が空しく鳴る。この検問所は厳しく検査され、通過するのにかなりの時間を要するという。しかし、この5人の中では私の格好はとてもまっとうなものであり明らかに怪しいのは、マルタの仙人。次いでロジャーであることは明らかだった。私は心の中で彼らに足を引っ張るなよと思っていた。

最初に検査を受けたのは、セレストとキャリクスト。彼女たちは中国語が話せるからか10分くらいで通過していった。次に行ったのはロジャー。ゲートの向こうで身振り手振りしながら道具を全部ひっくり返している。遠くからみると踊っているのではないかと思う。20分ほどで通過。次がマルタ島の修行僧パッカー。彼はスリーピングマットなどバックに縛り付けてあった紐をほどいて、中の物を全部出すと、1ミリも動かなくなり、じっとしている。遠くから見たら寝ているのではないかと思う。彼も20分ほどで通過。次私。全部荷物を出す。役人の一人はサプリメントの一つ一つまでチェックし、もう一人は翻訳機を使って質問をしてくる。

「中国の後はどこにいくのか?」
「4~5日滞在してからビシュケクに戻る」
「帰りのチケットはあるか」
「ある」
「みせろ」
「このチケットはビシュケク→北京→羽田じゃないか。カシュガル→北京→東京で帰えればいいじゃないか。ビシュケクに戻る必要はない」
「なぜもどる(怪しいな・・・)カメラとスマホを全部見せろ」
「スマホがもう一台あるだろう。スキャンに写っている」

そういわれて、荷物とともに奥の別室に連れて行かれた。窓もない窮屈な部屋だった。目をつけられたのは、マルタの仙人でもロジャーでもなく私だった。別室でも彼らは私の旅程を訝しがった。彼らが出せといったスマホは、数年前に使っていたiphoneをサブ機として持参したものだった。そのため中を見るには充電をする必要があった。

15分ほどしてスマホの電源が入った。5年以上開いてなかったため、現れたホーム画面のアプリのすべてに右上に雲のマークが表示され、また使用するにはクラウドからダウンロードしなければ使えないようになっている。彼らは写真に一枚もないことを確認すると次はメールを見せろと言ってきた。メールを開く。いくつかメールが残っている。時間を遡って画面を刳っていく。

すると、
父親
2013年8月30日
RE:RE:RE:RE:RE:
一応ソフトバンクには連絡して止めた。ただ基本料金と何かはわからんけど必要とのこと。保険の方はなにもできていない。今から透析。8時頃までは返信できません。50万円ほど振り込んだ。これでなんとか頑張って。何かあったら必ず連絡ください。

というメールが出てきた。これは2013年にカンボジア旅しているときに、身ぐるみ全部剥がされてしまって何もなくなって、ネットカフェから取り乱して父親に助けをもとめたメールに対して、返してくれたものだ。他にもこの頃父と交わしたメールがいくつか出てきた。ほわっと父親が今も日本で生きている気がして、今も心配してくれている気がして、とても嬉しくなって、優しい気持ちになった。結局45分かけてウイグル自治区カシュガルへ入国することができた。

荷物をパッキングし直して、急いで彼らのもとへ行くと、家畜を運ぶトラックの荷台、空の檻のなかに5人が乗ってこちらに手を振っている。どうやらヒッチハイクに成功していたのだ。それから、どれくらい檻の中で揺られただろう。あたりが真っ暗になり、その景色にポツンポツンと民家の明かりが増え始め、道端に妖霊な赤提灯が並ぶようになると、そこがカシュガルだった。

6月7日 ウイグルの肌触り

カシュガル初日。グッドモーニングステイインというゲストハウス。

昨夜、深夜1時過ぎに門を叩く私たちを、あくびをしながら文句を一つ言わず、若い主人は中へと招き入れてくれた。セレストとキャリクストは2人で個室を使い、私とロジャーはドミトリーへ泊まることにした。一泊1000円ほどであったが、マルタの仙人は高いといい、別の宿を探すといいどこかへいってしまった。

今朝、9時に目を覚ましたら、ロジャーのベッドはもう空だった。私はベッドを抜け、4階の一つ上の屋上へ出てみることにした。屋上には遮る物無くお日様が降り注いでいた。幾重にも洗濯物が吊され、もうカラッカラに乾いていることがそのなびき具合でわかった。洗濯物が顔に触れるたび、日本にはない香りがした。屋上の縁の手すりまでいくと、このあたりの町の風貌がよくわかった。

宿の周りは、庭をもたない低いビルディングのような家が密集していた。それぞれの家が三角屋根ではないものだから、犬を飼っていたり、運動器具がおいてあったり、花を植えていたりして、屋上を庭のように使っていた。ただどの屋上もほこりかぶっていて裕福とはいえない様子だった。

次に下に降りてみると、昨晩は真っ暗でわからなかったが、道の作りが面白く、車がギリギリすれ違うことができる通りを軸に、細い道が何本も伸びていて、その細い道はどれも行き止まりになっている。そんな魚の骨みたいな道路があちこちに伸びている。どの道も日陰ではあるがほのかに日差しが差し込み陰湿ということはない。それどころか、すっきりと片づけられており、ゴミ一つ落ちておらず、壁に這わせた植物も優しく、絶好の避暑地となっている。近くに住む大人も子ども椅子を出して小道に座り沈み込み、会話を楽しんでいる。

その一人が昨日私たちを招き入れた宿の若い主人だった。彼は私を見つけると座る場所を作ってくれて、「宿は気に入ったか?ここはウイグルスタイルの家で、このあたりはウイグル人が住んでいるんだ」と言った。彼が言うようにこの宿には変わった高級感があった。玄関を入って天井まで吹き抜けとなっており、天井から刺繍が施された細長い布が2枚1階まで吊されている。その吹き抜けを囲むように部屋があるのだけれども、階段の手すりであったり、窓枠であったりに凝った装飾が施されている。私は恐る恐る「あなたはウイグル人か」と聞いた。

日本を発つ前、ウイグル問題に関する本をわずか一冊とネットの記事をいくつか読んだ。私の理解したところによれば、この地域はウイグル自治区といいながら、中国政府が中国ナイズを強めており、ウイグル文化や宗教への制約が強まっている。政府に目を付けられると強制収容所に入れられる。他国の記者が入ることができないため、確かな情報が世界に発信されないが、そこでは深刻な人権侵害が行われている。というものであった。そのため、彼らはもしかしたらウイグル人であることを隠して暮らしているのかもしれない、または、たずねた私が通報されはしないかなどとも考え、小さな声で「ウイグル人であるか」と聞いたのだった。

彼は当たり前のように「そうだ。ウイグル人だ」と周りに聞こえる声で言った。そしてここに集まっているのもみんなウイグル人だと言った。どうやらウイグル人であることを公言してもなんら問題はないようだった。

一通り話を終えると、街を散策することにした。カシュガルの街は、バイクや車が賑やかに行き来しているがうるさすぎることはない。通り沿いには軒並みお店が建ち並ぶ。どこも看板の文字が大きく、赤なら赤、青なら青といった感じで自慢げである。看板の漢字の上にはウイグル語が添えられている。「酒店」の看板があちこちにみられ、酒を飲める場所がたくさんあるものだと思ったが、どうやら酒店は、ホテルを意味するようだった。ややこしい。道すがら出会った人らに「ウイグル人か」と聞いて歩いた。バス停で出会った親子、タクシーの運転手、売店の女性、定食屋の主人。皆隠すそぶりもなく「そうだ」と答えてくれた。

1人、路上にシートを敷いて血が滴る羊の皮を売っていた男性がいた。この羊の皮を買った人は一体何に使うのかと疑問であり、案の定、客は寄って来ず、羊の皮には無数のハエが集っていた。この男性にもウイグル人かと尋ねてみた。簡単な英語で尋ねたのだが英語はわからないようだった。スマートフォン翻訳で「あなたはウイグル人ですか」を中国語に翻訳して画面を見せた。彼はその文字をじっと見つめると渋い顔をして顔の前で手を激しく振った。どうやら中国語がわからないようだった。このスマホの翻訳アプリもさすがにウイグル語には対応してないだろうと検索すると、なんとウイグル語にも翻訳してくれることがわかった。その精度には心許ない気もしたが「あなたはウイグル人ですか?」と記入すると、クネクネしたウイグル語に変換してくれた。これを彼に見せようかとしたときに、ふと、この質問では真に迫る回答が得られないのではと思い、質問をこのように変えてみた。「あなたは中国人ですか?」彼はその文字を3秒ほど見つめると、何もいわずあさっての方を向き直し、もう取り合ってはくれなかった。

彼と別れ、今のうちに帰りのチケットを買っておこうと思い、バスターミナルに寄ってみた。バスターミナルとその向かいに電車の駅があるのだが、その間にはサッカー場4面ほどの何もないコンクリート張りの広場があり、そこは灼熱のコンクリート砂漠となっている。バスの売り場に入ると、外が明るすぎたせいか中は薄暗く感じた。窓口は5つほどあるが、開いているのは一つだけで、その一つの窓口にチケットを求める人々が突っ伏し、扇状に詰まっていた。意を決して、押しくらまんじゅうしてかき分けて先頭まで行き着いたのだが、それでも私の耳元や脇から、お金や身分証カードを持った手が、我先にと伸びてくる。その手を払いのけながら、大きな声で「キルギスへのチケットはあるか」「いくらだ」「いつ出発か」「どこから出るのか」「他のルートはないか」など係の人に尋ねた。スムーズにやりとりがいくはずもなく、私一人が5分も10分も時間を使うことになってしまった。さすがに後ろの人たちに申し訳ないなと思い、振り返って謝ると、意外にも後ろの彼らは、嫌な顔をするどころか、この外国人を助けてやろうという感じで、係員との間に入って通訳のようなことをしてくれたり、金額もわかりやすく紙に書いてくれたりした。値段は595元(12,000円)。想像よりはるかに高かったが購入するしかなかった。彼らが教えてくれるには、出発は9日の朝10時。このチケットはビシュケクまでのチケットだが、途中で降りたいと運転手に言えば降ろしてもらえるとのことだった。ペラペラのバスチケットには、目立つ大きな大きな文字で「中国国民の間に強い団結意識を築きあげよう」と書いてあった(漢文を後で日本語訳した)。バスターミナルに入っている食堂でご飯を食べる。みな箸を使って食べる。前屈みになって、身体からも湯気を立てながら麺を啜っている。牛肉面20元(400円)美味いけど日本のラーメンの方が好き。

午前11時。タクシーを拾い、カシュガルの中心部へ。中心部にさしかかり目の前に現れたのは小高い丘一面に黄土色の建物が密集した一塊だった。運転手に「あれはなにか?」と聞くと「エンシャント」と英語で答えた。昔のウイグル族の街並みを保存してある旧市街ということらしい。明らかにその一体だけ周りの街並みと雰囲気が異なっていた。そこでタクシーを降りた。太陽が真上にある。からっとした風が吹いている。

6月7日 旧市街を歩く

昔のウイグル文化を保存してあるという旧市街は、一見すると黄土色の巨大な城塞である。周囲と比べてあきらかに異質であり、特別な空間であることはわかるものの、これが深刻な人権問題の渦中にあるウイグルでどのような意味をもつエリアなのか、昨日ここ着いた私にわかるはずもなく、中国の方針に従わないものを捕らえる強制収容所が地方にあると、ウイグル問題の本で読んだが、ここもその類のものであるのかもしれないとも考えなくもなかった。旧市街の各門には軍人が手荷物検査をしていて、恐る恐る近づくと形式ばかりの手荷物検査をして中に通してくれた。

門をくぐり中に入ると、想像していたものとは真逆の世界が広がっていた。
乾いた石畳の路地にオルゴール箱のような家が寄せ集まっている。オルゴール箱と例えるのは少しお洒落すぎかもしれないが、多くの家が黄土色した2階立てで、細かいレンガの壁や幾何学模様に細かく装飾された木製の扉や窓枠は、見ているどどこかオルゴール箱に見えてきて美しい。そこに路面店がずらりと並び、売り子が声を枯らして呼び込みをしているが、その前を通る観光客は、休日の竹下通りを思わせるほどで、呼び込みの声も雑踏にかき消されてしまっていた。観光客は、その風貌や話している言葉から察するにいわゆる漢民族の人らであった。恐竜をモチーフにしたジュラシックパークがあるように、ここはウイグル文化・遺跡をモチーフにしたテーマパークのようだと思った。

商売をしているお店は、飲食店やお土産屋など様々であったが、特に一番目についたのは貸衣装のお店だった。その店頭にはウイグルの民族衣装を着たマネキンが置いてあり、マネキンたちは、裾の広いカラフルなワンピースにきらびやかなベストを纏い、頭には肩下まである薄い布が垂れる帽子をかぶっている。遠くからでも美しさが際立つ。漢民族の女性たちはマネキンが立ち並ぶお店に次から次に吸い込まれてゆき、ウイグル衣装に着替えた女性が吐き出されていく。

衣装レンタルのオプションに写真撮影があるようで、しかもそれはお金を掛けるほど、照明や反射板を持つ人、メイクを直す人もついて本格的な撮影になるようだった。道すがら、一眼レフを持ったカメラマンがウイグル民族のドレスを着た女性を撮影している場面に何度か遭遇した。あるときは、ピンクの美しいドレスを着た女性が、階段に座って撮影をしていた。一眼レフを抱えたカメラマンは写真監督のように指一本一本までポーズの指示を出し、女性はその指示に応じて、振り向きざまに、うつむきながら、そっと指をアゴに添えるというポーズを取っていた。一呼吸入れるたびに、照明や反射板の人も位置を変え、メイク担当が女性の髪の毛をいじりに入ってくる。有名ファッション雑誌の表紙の撮影でもしているかのようである。撮影をしている通りは少しの間封鎖され、止められた通行人はその撮影を見学することになる。通行人らは、いかばかりの美女が写真を撮られているのだろうかとしきりに顔をみるのであるが、頭にかぶったヒラヒラの布が顔を隠してよく見ることができない。ようやく布がなびいて顔が見えると、年増の女性であった。「なんだババアじゃねえか」という声が聞こえた気がした。それにしても、ドレスを着た彼女はメイクまでプロに施してもらって、時に視線を上へ向けて優雅に、時に視線を下へ向けトローンとした悲しげな表情を作ってみたりとその世界に入っていて、それは一つのショーのようで、しばし楽しめた。

賑やかなメイン通りを一歩外れると、静かな石畳の細い路地が迷路のように入り組んでいる。旧市街はあまりにも広く、どこまで行っても終わりがなかった。奥に入れば、そこにはウイグル人の素朴な生活があった。薄青いワンピースを着た小さな女の子が子猫を追いかけ回して遊んでいた。ニーハオというと子猫を抱きかかえ自慢げに私に見せてくる。「写真を撮ってもいいか」と身振りで聞くと、「だめ」という。もう一度聞くと、渋々「いいよ」という。撮れた写真を彼女に見せると気に入らなかったようで、「もう一度」と言いながらレンズの向こうに駆けて行き、スカートを広げてポーズを決め、「撮れ」と言わんばかりの顔でこちらを見るのだった。そうこうしているうちに近所に住む幾人かの子どもたちも集まってきて、かまって欲しいのかかまって欲しくないのか微妙な距離感で遊び始めた。植木に水やりをしていたお母さんのような人が、ホースを片手に「遊んでないで宿題でもしなさい」というようなことを言うと、子どもたちはそれぞれの家々に入っていった。生活空間に迷い込んだ旅行者を嫌悪せず、柔らかな笑顔を向けてくれた。私は、曲がり角にさしかかるたびに、この先にどんな美しい景色が見られるのかとドキドキした。

旧都市の一角にエイティガールモスク呼ばれるモスクがあるという。ウイグル人の多くはもともとイスラム教徒であり、弾圧をする上では明治政府下で起こった廃仏毀釈やタリバンのバーミヤンの石仏破壊のように宗教施設を破壊するのが常套手段であるはずなのに、どうなっているのだろうと興味が沸いた。

その黄色いモスクは当たり前のように建っていた。疎遠されるどころか、入り口前の広場では観光客らがセルフィーを伸ばして記念写真をとったり、子どもがパンダの乗り物の遊具で遊んだり、風船を売ったり、露店が並んでいた。まるでテーマパークの休憩所のような雰囲気だった。いくらか入場料を払ってモスクの中に入ってみる。中に入っても観光客ばかり。広い中庭を抜けた奥に礼拝堂がある。中に入るとモスクにしては珍しく、四角い長方形の建物で、一辺にだけ日本様式の床の間のような窪みがあるから、恐らくこちらの方角がメッカであろう。漢民族の団体客がガイドに連れられて入ってくる。ガイドが何やら説明をしている「ここがイスラム教のモスクです。以前はウイグル人たちが礼拝に来ていました。」といった感じだろうか。その説明を「あーあー」と納得しながら楽しげである。

私はモスクを見学し終わると、広場の露店の4人掛けの円テーブルに座り、かき氷を注文した。赤いTシャツを着た中年の男性は、「暑いだろう。かき氷にするか、アイスにするか?ジュースもあるぞ」と愛想良くショーケースをあけて見せた。かき氷を注文して待っていると、小さい子どもが私の足下へやってきた。少し離れたところから母親が子ども名前を呼び、私に「ごめんなさいね」と和やかな笑顔を見せた。目の前の広場では、また別の子どもが風船が欲しいと泣きながらねだり、母親が「前も買ってあげたでしょ」というように引き離そうと手を引っ張っていた。至って長閑な時間だった。注文していたかき氷が来ると、私は今日の日記を買いて置こうと、ポメラという小さいパソコンのようなものを取り出し、タイピングを始めた。すると10分もしないうちに、ジーパンに白いTシャツの男とジーパンに黒いTシャツの男が私の両サイドに座った。二人とも胸板の厚い大柄な男だった。一人が私のパソコンを取り上げて「何を書いているのだ。モスクについて書いているのか。どこから来たのか」などと聞いてきた。もう一人はテーブルに広げてあったメモ帳を見て、カバンの中を見て、スマホとカメラのデータの確認を始めた。すぐに公安だと思った。思い返してみれば私がポメラを広げた瞬間に周りの空気が変わったのを感じた。スタッフがこそこそ話を始め、どこかへ電話をかけた。それに合わせて隣りに座っていた客が急にいなくなった。きっとあの電話は公安にかけたに違いないと思った。ウイグルは、中国政府が報道を規制しているため、海外のメディアが入ることができないと本で読んだことがあった。パソコンを開く私を見て、住人たちが「記者がいるぞ」とでもいったのだろう。彼らは私の所持品を事細かにチェックすると、「オーケー」と言って立ち去っていった、、、かに思えた。彼らはその日夜まで旧市街を散策する私の後ろを一定の距離を保ってついて回っていた。振り返るたびに2人の姿があった。その日、ウイグル自治区の現実を見れた気がした。

6月8日 動物マーケット

朝、宿の屋上で歯を磨いていると、ここに宿泊している漢民族の青年がやってきた。彼は大きめのシャツに真っ白の半ズボン、短くそろえられた髪の毛に縁のないメガネを掛けていた。いいところのおぼっちゃんみたい。スマホに目を落としたまま、私の方に向かってきて「日本人か?」とたずね「日本人だ」と答えると嬉しそうなまなざしで握手を求めてきた。彼は名をイーシェンといった。

北京で不動産の仕事をしており、観光に来たのだという。流暢な英語を使い、嬉々としてこんな立ち話を続けた。「この宿がある地区はカシュガルでも貧しいところ。屋上からみるよ余計それがわかるだろう」とか、「旧市街エリアに元々住んでいたウイグル人たちは国からお金をもらって住んでいた昔ながらの家を明け渡し、郊外のマンションに引っ越してるんだ。その家を俺が手配してるんだ」とか、「このカシュガルに旅行に来ることは中国人たちにとっては、秘境を旅するようなもので憧れなんだ。俺はもうここに何度も来ている」とか。そんな彼の話を聞いているうちに私の口の中が歯磨き粉の泡で一杯になって途中からいつ洗面所に行こうかタイミングを見計らい、相づちだけ繰り返していた。

彼は私にいくつかお勧めの観光地を教えてくれた。そのなかには、エイティガールモスクや香妃園、旧市街など昨日すでに訪れた場所も含まれていたが、ナントカという隣町でバザールがあり、そこでウイグルのローカルダンスが見れるのだという情報など魅力的なものもいくつかあった。その中に動物マーケットというものがあった。ここからさほど遠くないところで、牛や羊といった食用の動物たちが大量に売り買いされる場所らしかった。この街を歩いていると、道路脇に血を垂らした羊の皮を10匹か20匹分折り重ねて置き、やる気なさげに売っている人に時々出会った。彼らは皆、見窄らしい格好をしていて、中国語を話すことができないウイグル人だった。動物マーケットにはウイグル人たちが多く集まっているように思えた。

イーシェンとまた夕方に再会することを約束して、早速、一人タクシーに乗り動物マーケットに向かった。20分ほどの乗っていると建物らしいものがなくなり、目隠しの長いフェンスと大きなトタンの屋根が現れた。運転手がここが動物マーケットだと言った。正面口は人や車がごった返していたため、裏口で下された。裏口からマーケット会場までは幾分離れているようだが、ここにも動物たちの悲痛な声が聞こえ生臭い匂いが漂っていた。会場の方へ歩いて行くと、今買われたばかりの羊たちを男たちが足の一本くらい折れてもいいといわんばかりに強引に車に積み込んでいたり、今到着したばかりの車から羊たちを押し落とす勢いで降ろしていた。

会場のすぐ手前に掘っ立て小屋のトイレがあった。そのトイレは、いくらかお金を払って使うトイレだった。入ってみると、5人ほどが一緒に用をたせる作りになっていて、となりの区画とは腰の高さほどまで積み上げられたブロック壁で仕切られているだけであった。ここで大も小もするのだから丸見えである。一つの区画に入ってみると、足下にポッカリと用をたす穴が開いた。その穴から外の光りが差し込み、その先に大量の糞尿やゴミが浮いているのがよく見えた。自分のズボンのチャックを降ろし、自分のおしっこが弧を描いてたどり着くところで、だれのそれともわからないものと混じり合うのを見ていた時、糞尿の中で何やら動いた気がした。見間違いかと思ったが、やはりそこに白く細いミミズのようなものが4匹、糞尿の中で頭までどっぷり浸かり右に左に身体をよじらせて我が住処とばかりに泳いでいるのだった。経典の中に、仏さまが見た私の姿が説かれるところが多々ある。その中には、五濁悪世という煩悩で汚く濁り切った世界の中で、その濁りに気づかずに悠々楽しげに暮らしていると説かれところがあるが、仏さまは私の姿をこのように見ているのであろうか。いやいやまさか糞尿の中で楽しく泳ぐ白ミミズよりはましであると信じたい。などと考えながら用をすませた。

動物マーケットは、サッカーコート一面くらいの広さで、それがまるごと動物たちの悲痛な声で覆われているから近づくことに躊躇する。牛もいるが羊が多いようである。会場の至る所で売り手が買い手に自分が連れてきた羊の歯や耳、肛門などめくって見せて値段交渉をしていて、とうの羊たちは売り手にも買い手にも目を合わせないように、お尻を向け、鉄柵の隅で震えていた。交渉がまとまると、買い手はポケットから裸ゼニのクシャクシャした札を何枚か取り出しそのまま売り手に渡し、売り手はそれを手のひらで一枚二枚と大げさに数えて握手をすると、気に入った羊を3匹引きずっていった。

会場のすぐ隣りにある駐車場に無造作に止められたトラックがあった。荷台にはこれから降ろされるであろう牛が3匹乗っていた。トラックに近づきそのうちの一匹の鼻や頬を、自分にできる限りの優しい手つきで撫でた。牛は潤んだ大きな大きな瞳をしていて、その瞳がこちらに向くと、大きな瞳の中に私の姿が鮮明に写るのだった。それは鏡のように着ている服の色まで判別できるほどだった。牛はしばらく、私を見つめたあと、とてもゆっくりと顔を上げ、同じ瞳で、自分がこれから売り買いされる会場を眺め続けた。それはマーケットの先に広がる晴れ渡った空を見ているようでもあり、自分の命の行方を見ているようでもあった。

帰り際、動物マーケットの隣の露店街に立ち寄ることにした。食堂や肉屋、スパイス屋、駄菓子屋まであって、そこには漢民族の観光客がらはひっきりなしにやってきていた。ふと、人間の悲鳴のような声が聞こえ、目を向けると、今、動物マーケットで買われたばかりの羊が男に引っ張られ肉屋に運び込まれていた。羊は羊の声とは思えないような悲痛な声を出し、暴れ狂っていた。たまたま居合わせた観光客も状況を察し、見ないようにと遠のく人もいれば、見たくないような見たいような視線を向ける人もおり、半径10メートル内の空気が、まるでパンパンに膨れ上り今にも破裂しそうな風船のように緊張した。

運ばれてきた肉屋の軒先には、数刻前に殺され皮を剥がれた肉の塊が逆さまに吊されていて、まな板代わりの太い切り株と、大きな斧が置いてあった。羊は、その下にくくり付けられ、死の順番待ちとなると、すべてを諦めたように静かになった。すると、こともあろうに漢民族の観光客が、怯える羊のもとに寄ってきては、一人また一人とお尻を(この地域の羊は、お尻に脂肪を貯めるため、プリッとしたお尻が特徴)突っついたり、もんだり、顔を近づけたりして、遊び、楽しげに記念撮影をしていた。彼らの記念撮影が一通り終わるのを待って、肉屋の主人は羊を奥まった所へ連れて行き、羊の首を絶つ音がすると、風船が割れたように、周辺の緊張感はなくなり、人々は散り散りに去っていった。そのあと、一通りマーケットを歩き、会場を後にした。

夜。イーシェンと合流して、セレスト、キャリクスと、そして今ゲストハウスに到着したばかりだという漢民族のヤンさんで、食事に行くことになった。時刻は夜9時過ぎであったが、この地域の日の入りは22時だから、ようやく太陽は夕日に変わったころであった。橋のたもとレストランに向かう途中の橋の上では、多くの漢民族の家族がサンセットを眺めていた。その伸びた影はとてもあたたかで、優しいものだった。

夜になった旧市街は、どこもかしこもライトアップされ、土色の壁にライトがあたるとどこかヨーロッパの雰囲気も感じた。あちこちに観光客向けの洗練された飲食店があり、ジャズミュージシャンの生演奏も聞こえ、存分にゲストを楽しませていた。イーシェンが行きつけだというレストランバーのテラスに座り、さらっとした心地よい夜風にあたりながらビールを飲む。

姉妹とはこの2日間の報告をし合った。中国を心底愛していた彼女らにもウイグルには強い違和感を覚えたようで、「not natural」渋い顔をしてそう言った。イーシェンとヤンさんはそれぞれの生活を教えてくれた。イーシェンは職場の仲間や付き合っている彼女の写真を見せてくれて、彼女の料理が美味いんだとはにかんだ。ヤンさんは奥さんや子どもの写真を見せてくれて、見せるだけでは足りずテレビ電話をはじめた。奥さんや小さい息子が画面に映ると、ぽつりぽつり家族だけの会話を始めた。画面を見つめるヤンさんの横顔はお父さんの表情で別人のように見えた。カシュガルを旅すると漢民族の悪なる部分に目がいくが、時折、こうやって曲調の違う愛情のようなものをみせられると、一括りにはできないということに気付かされる。

食事を終え、宿までの帰り道、ヤンさんが「今は果物が美味しい時期で、スイカが特にうまいんだぁ。食べてもらいたいなぁ。」と言って、果物屋を探してキョロキョロしていた。ようやく果物屋を見つけると、丸々1個スイカを買った。30ユアン(600円)。お店で8等分の切り口を入れ、二重の袋に入れてもらい交代しながら持ち帰った。帰り着くと宿のロビーは電気も落とされ、みんな寝てしまっているようだった。間接照明の明かりを頼りに思い思いに座り、スイカを分け合った。床にしずくが落ちないように啜りながら食べるものだから、静まりかえったロビーにブシャブシャと卑猥な音だけが響いた。誰かが笑い出すと、みなおかしくなって、声を殺しながら腹を抱えて笑い合ったのである。

6月9日 キルギスに向けて出発

昨晩、友人たちにはさよならを伝えた。特にセレストとキャリクストには助けてもらってばかりだった。

キルギスへ向かうバスは朝9時半に出発した。

バスには椅子はなく、身体幅の2段ベットが横に3列、縦に7列あるだけ。ベッドは硬い。古びており、陰鬱。マットレスもブランケットもあまり干してないよう。ごちゃごちゃと混み合っている。昔の体育会系の部室がそのまま移動する感じ。私は一番前の中央、下の段。なんだかんだ言ったが寝てみるととても快適で、日本の長距離バスもこれにしたらいいのに。

後ろの乗客に尋ねると、ここに乗っている人は、みなウイグル人と言うことだった。土木の工事をするためにキルギスに向かうのだと言った。みな見窄らしい格好をしていて、日本に仕事はないかと真顔で聞いてきたのだった。隣のベッドは青い髪をした細身の中年の女性で、黒いワンピースだけ着ている。出発前には大股をひらいてご飯をムシャムシャと食べていた。汚いと思った。

乗客のパスポートは運転手が預かっており、中華人民共和国の小麦色のパスポートの中に紛れ込んだ日本の赤のパスポートは遠くからでも目立ち、ちゃんと運転手が持っているなと安心できた。彼らのパスポートには特別な書類のようなものが挟んであった。それは中国政府からの出国の許可証のようなものだと言った。

荷台には、キャリーバックだけではなく、テレビや扇風機などの電化製品から、作物が入った大きな麻袋、蓋をテープで止めただけのバケツなど、もうパンパンに入っている。出発前、運転手や乗客らがラガーマンがスクラムを組みような感じで押し込しこんでいるのを見た。

10時出発。11時中国国境検問所。荷物検査。あっさり終わる。
15時半。中国出国審査。私だけ別室に連れて行かれる。

格子窓のある白い部屋、6畳ほどの広さに机が一つ。私と役人が三人。彼らは胸にあるカメラに私が映るように何度も微調整する。トイレ行くにも用をたす真後ろまで着いてくる。まるで犯罪者のよう。中国語で書かれた公文書を持ってきて、サインと母音を押すように迫られる。何の書類かわからぬままサインする。スマホを取り上げられ、すべてのパスワードを聞き出され、別室に持って行かれる。一人が荷物を事細かに見て、もう一人が翻訳機を使って質問する。
「カシュガルに何をしに来たか?」
「いくら使ったか?」
「中国について何をしっているか?」
「中国に来たことを家族は知っているのか?」
「カシュガルで誰に会ったか?会った人の名前は?」など

1時間過ぎた頃から、同じバスの乗客たちを待たせてしまい申し訳ないという気持ちが強くなってきた。
2時間が過ぎたころから、もう私のことは置いて先に行って欲しいと思うようになった。
3時間が過ぎたころから何も感じなくなった。
結局4時間かけて検査が終了。中国語で書かれた公文書にサインと母音を押して、スマホとパスポートをもらいバスへ戻る。

同じバスの乗客たちは、私と同じバスになってしまったがために、4時間も待たされることになったのだ。どれほど謝ったら許してもらえるだろうかとそんなことばかり考えながらバスに戻った。彼らはバスの外で、地面に座ったり寝転んだり、タバコをすったり、ラーメンを食べたり、まさに肉体労働者の休み時間のように過ごしていた。戻ってきた私をみるなり、あるものはグッドサインを向け、あるものは肩をたたき、あるものはよく頑張ったなと労い、あるものは遅いじゃないかと笑顔で茶化し、私に謝る隙さえ与えてくれず、誰も私を責めはしなかった。

バスに乗り込むと、さっきまで汚い食べ方をしていた隣のおばちゃんが、大股を開いたまま、ぐちゃぐちゃのカバンの中を掘り出し、無垢な笑顔とお菓子をポンと渡してくれた。鱈のせんべいと和菓子だった。ジワッとたまねぎを切ったときみたいに涙が溢れてきた。

バスは中国を出国し、翌日午前11時にアトバシというキルギスの小さな町に着いた。

関連記事

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA